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3 炭鉱夫

 車は黒々した小高い山の間を通っていきます。人が入らないように、山の周囲はロープで囲ってあるのですが、来る者を拒んでいるのはそのただ一本のロープだけですから、侵入しようとすればいつでも入れるでしょう。そんな山がいくつもある。 「あの山は何?」 「ボタ山だよ。石炭を掘ると一緒に出てくるゴミみたいなものが、山みたいになったんだ」  そのあたりがかつて炭鉱の町として繁栄していたことは知識としては知っていました。  もっとも、炭鉱そのものを見たことはありません。とうに閉山して、そこに炭坑があったことさえわからなくなっています。にもかかわらず、ゴミの山だけが、ここにこうして残ってあるのです。 「あれ、アスファルトのもとになるらしいよ」  父はハンドルをきりながらそう説明してくれましたが、アスファルトにすることができないからこそ、ここに打ち捨ててあるのでしょう。役に立たないもの。捨てるしかないもの。それが高い山をつくっている。わたしはまだ年端もいかない子どもでしたが、ここが炭鉱の街だったころの繁栄が見えるような気がしました。  曾祖父――正確には血のつながりがあるだけで曾祖父ではないのですが――は、諸国を流浪する炭鉱夫であったそうです。あちらで給料のいい雇用があればそこで働く。こちらにいい待遇があればそちらに行く。どこへ行っても炭坑へ潜って掘るのが仕事なら、そこがどこであろうと関係ない。たくさんお金をくれるところで仕事をする。曾祖父はそんなドライな考え方を持つ人物だったようです。  彼はわたしの直接の血筋、血だけたどれば曾祖父だった人ですが、姓はわたしと同じではありません。わたしは「鹿島」という姓なのですが、彼は鹿島ではなかったということです。彼は、鹿島とは縁もゆかりもない人物でした。姓を調べてみようと思ったことがあるのですが、もはや彼の姓を記憶している人はいませんでした。  彼は自分の息子を、鹿島家に養子に出します。おそらくは炭鉱夫として諸国を移動してまわるのに、子どもは邪魔だったのでしょう。ちょうど、戦争で子を亡くした夫婦がある。彼らに子をあずけて移動しよう。それが彼の考えだったようです。そこに金銭の授受があった可能性もありますが、今となってはわかりません。  子は、鹿島の家にあずけられることになりました。彼が鹿島になったのはそのときからです。ある程度...

1 華厳経

『華厳経』の元となった経典が成立したのは、インドのどこかだろうと言われています。ただし、そのときには『華厳経』という名前はありませんでした。あったのは、それぞれが独立してほとんど関連のない複数の経典だったのです。  やがて、それらの経典は中央アジアのホータンに入りました。ホータンとは、タクラマカン砂漠に接したオアシス都市です。ラクダがたくさんいるところだよといえば、イメージがわく人でしょう。現在は中国領になっていますが、当時から養蚕すなわち絹の生産がさかんでした。 『華厳経』はホータンでつくられました。関連のあまりない複数の経典をひとつにまとめ、『華厳経』という名前をつけたのです。複数のお経をひとつにしたのですから、すさまじい大部になりました。また、かつては独立した別の経典をひとつにしたのですから、正直言ってまとまりはありません。  出自の異なるものをひとつにしたのは、ひとつには運搬の便がよかったからでしょう。  『華厳経』はやがて中国に伝わり、朝鮮半島を経て日本に伝えられますが、独立した経典であったなら、伝えられるものもそうでないものもあったはずです。しかし、ひとつの経典ならばそのすべてを伝えることができます。  中国では華厳経を奉ずる華厳宗が成立し、それが日本に伝わりますが、そうした展開もこれが「ひとつの経典」と考えられていたためです。華厳経の教えは日本ではとても重要なものとされ、現在でも奈良の大仏さまに毎日あげられているお経は華厳経です。明恵上人はもっとも長く、深い夢の記録を記した人として世界的に有名ですが、彼も華厳宗のお坊さんでした。  独立した小さな経典をまとめあげ、『華厳経』という大部のお経をつくった理由はもうひとつあります。  こけおどしのためです。  大部のお経は、それだけでなにか重要なことが記されているように思えます。独立した別々の経典がいくつもあったのでは、これは望めません。  また、当時は現在流通しているような紙がまだ発明されていませんでした。大部を扱うということは、経済的に豊かであることの証明でもあったのです。逆に言うと、『華厳経』はそれだけのお金をかけて、時間をかけて、労力を費やして運ぶべきものであると考えられたということでしょう。 『華厳経』はシルクロードを席巻しました。インド、中央アジア・中国・朝鮮、そし...

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 そのカンボジアは、かわいらしくはにかみながら、こう言いました。 「お父さんもお母さんも、字が読めないですよ」 「えっ」  驚かずにいられませんでした。 「学校に行ったことがないから、字読めないんです」  カンボジアは七十年代に、ポル・ポトによる虐殺のあった国です。一説によれば、彼が排除した人の数は3万人、これはカンボジアの総人口の4分の1に当たるといいます。  もっとも、社会主義国の首長による虐殺はめずらしいことではなく、スターリンも毛沢東も大規模な虐殺をおこなっています。その数はポル・ポトよりずっと多いのです。  とはいえ、ポル・ポトはやはり異常な指導者でした。  虐殺の中心が、知識人だったのです。  体制に異を唱えるのは知識人である――そう考えるのはポル・ポトだけではありません。日本の政治家たちも同じことを思っているでしょう。反体制を唱えるためには、理論的支柱が必要です。したがって、反体制の指導者が知識人であることはめずらしいことではありません。あさま山荘に立てこもったグループも、オウム真理教の幹部たちも高学歴でした。 「アタマがいいやつはロクなこと考えねえ」  これは国家指導者の共通見解であると言ってもいいでしょう。  しかし、だからといって排除することはできません。知識人なき国は、脳を持たない動物と同じです。まっとうに歩くことさえできなくなります。  ところが、ポル・ポトはそういう人間を真っ先に排除しました。 「彼は危険思想を抱いているから」ではありません。「アタマがいいやつは、危険思想を抱く可能性があるから」殺されたのです。  これは、そのへんにいるちょっとアタマのいい人にも及びました。医者とか弁護士、さらには学校の先生の多くも殺害されました。  それゆえ、今の壮年~中年、ポル・ポト時代に子どもだった人のほとんどは、学校を知りません。教師がいないのだから当然のことです。  彼らは文字を読むことができません。簡単な計算もできません。  カンボジアには書店があまりなく、新聞を売っているところも滅多にないのですが、読める人がすくないためです。  だが、彼女はそうではない。かなり語学が達者です。自国語はむろんのこと、英語もできます。残念ながら披露するところは見ることができなかったが、中国語も得意だそうです。学校に通...