名前
作者、ないしは編者はわかっていません。
全編に色濃く仏教の色彩が投影されており、説経用につくられたと思われる物語もあることから、これを仏教関係者なかんずく僧侶の仕事ではないかとする意見も根強くあるようですが、推論の域を出てはいません。ここには、作者・編者のクレジットが――早い話が名前がないのです。
現代の常識から考えると、これは異様なことのように思えます。
映画などでは、エンドクレジットにいくつも名前が列挙されるのが普通のことです。あそこに名前を載せたいから協力する、というような転倒したスタンスさえあると聞いたことがあります。あんなところに名前出たって誰も気づかねえよ。
近代より前の時代には、絶対にあり得なかったことです。
かつて、個人の名前は重要なものではありませんでした。ひとりの人間が、いくつも名前を持っているのが、むしろ当たり前のことだったからです。
たとえば立川談志は、前座名小よし、二つ目で小ゑん、真打で談志と3つの落語家名を持っていました。これは、名前が社会システム上の役割につけられるものであり、個人につけられるものではなかったためです。
社会システム上の役割、すなわち落語家としての重要度が変われば名前が変わる。これは当然のこととされていました。
近代以降、このスタイルは廃れます。ひとりの人間がひとつの名前を持ち、生涯それが続くという形が一般化するのです。
どうしてそんなことになったのかといえば――納税と兵役のためです。社会システム上の役割が変わったからって、ころころ名前を変えられたらたまらない。税金逃れも兵役忌避も簡単にできちゃうじゃないか。それを禁じるために、名とは個人につけられるものであるとされたのです。すなわち、「名前はひとつ、個人を表すもの」は近代国家の要請によるところがとても大きいのです。
この現象について、養老孟司先生が嘆かれていました。名前が個人につけられる重要なものとされているからこそ、人は「何者かであらねばならぬ」と思い込むようになる。強迫観念を抱く。自分探しとか個性重視とか、いずれも近代国家の成立と密接に関係しているものなんだ。人類が有史以来えんえんと抱いていた観念ではなく、むしろ新しい考え方なんだ。
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