藤十郎の恋

 『藤十郎の恋』とは、芸のために人妻と不倫する歌舞伎役者を描いた小説(戯曲もある)だが、主人公の役者が出てくるまで、春の描写がえんえんと続く。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/47857_32607.html


なんてのどかなんだろう。今これできる人はいないか危機感ないアホだなと思いつつ。

これがめちゃめちゃうまいんだ。文芸とはまさにこれだし、これできる人もまたすくないだろう。


都では、春の匂いが凡ての物を包んでいた。ついこの間までは、頂上の処だけは、斑らに消え残っていた叡山んの雪が、春の柔い光の下に解けてしまって、跡には薄紫を帯びた黄色の山肌が、くっきりと大空に浮んでいる。その空の色までが、冬の間に腐ったような灰色を、洗い流して日一日緑に冴えて行った。

 鴨の河原には、丸葉柳が芽ぐんでいた。その礫の間には、自然咲の菫や、蓮華が各自の小さい春を領していた。河水は、日増ひましに水量を加えて、軽い藍色の水が、処々の川瀬にせかれて、淙々の響を揚げた。

 黒木を売る大原女の暢やかな声までが春らしい心を唆った。江戸へ下る西国大名の行列が、毎日のように都の街々を過ぎた。彼等は三条の旅宿に二三日の逗留をして、都の春を十分に楽しむと、また大鳥毛の槍を物々しげに振立てて、三条大橋の橋板を、踏み轟ろかしながら、遙かな東路へと下るのであった。

 東国から、九州四国から、また越路の端からも、本山参りの善男善女の群が、ぞろぞろと都をさして続いた。そして彼等も春の都の渦巻の中に、幾日かを過すのであった。

 その裡に、花が咲いたと云う消息が、都の人々の心を騒がし始めた。祇園清水東山一帯の花が先ず開く、嵯峨や北山の花がこれに続く。こうして都の春は、愈々爛熟の色を為すのであった。

 が、その年の都の人達の心を、一番烈しく狂わせていたのは、四条中島都万太夫座の坂田藤十郎と山下半左衛門座の中村七三郎との、去年から持越しの競争であった。



ここでようやく藤十郎登場なのであるが、文がじつにいいなあ。

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